Andre Gide

アンドレ・ジッドジイド 、ジード)
     父ポール・ジッドは南仏ユゼスの生まれで、パリ大学の法学部教授だった。
     母ジュリエット・ロンドーは北仏ルーアンで生まれた。非常に厳格だった。

     1869年11月22日 フランスのパリのメディシス街一九番地で生まれる。 

     1877年(8歳) アルザス学院に入学する。内気な頭脳の働きの鈍い生徒で、成績は不良だった。
     麻疹のため退学し、ノルマンディのラ・ロック=ベニャールの別荘で保養する。
     動植物や音楽に興味を持つ。 

     1879年(10歳) アルザス学院に復学する。数名の生徒と共にヴデル先生の家に寄宿する。

     1880年(11歳)10月28日 、死去。これ以降、や伯母、の家庭教師だったアンナ・シャクルトン等に
     教育される。
     病気のため、再び退学し、転地療養する。     

     1882年(13歳)12月末 伯母マチルドの不義と従姉マドレーヌ・ロンドーの苦悩を知り、激しい衝撃を受ける。
 
     1883年(14歳) アンリ・ボーエル(『一粒の麦もし死なずば』のリシャール先生)の家に半寄宿する。
     この頃から日記をつけ始める。

     1884年(15歳) アルザス学院に再入学したが、3か月後再び退学する。
     この頃から、に許されての書斎に出入りできるようになる。
     テォフィル・ゴーチエ、ハイネ、ギリシャ古詩などを読んだり、聖書を耽読する。
     マドレーヌに思慕の念を抱き始める。

     1887年(18歳) アルザス学院の修辞学級に入学する。この頃から文学的才能が現われる。ゲーテを読み始める。
  
     1888年(19歳) アンリ四世校に転校する。スピノザ、ライプニッツ、デカルト、ニーチェなどの哲学書を読み耽る。
     アンリ四世校を退学する。独学で大学入学資格試験の準備を始める。

     1889年(20歳)7月 大学入学資格試験に失敗する。
     10月 追試験で合格するが、大学に進む意志はなく、文学者として生きる決意を固める。     

     1890年(21歳)1月 ヴェルレーヌをブルーセ病院に見舞う。
     3月1日 マドレーヌの父が死去し、彼女と共に通夜をする。
     8月 『アンドレ・ワルテルの手記』を書き上げる。
     12月 ヴァレリーを知る。

     1891年(22歳) マドレーヌに求婚して拒絶される。
     パリ大学哲学科に登録したが、すぐに退学する。
     ピェール・ルイスの紹介で、エレディア、マラルメのサロンに出入りする。
     処女作『アンドレ・ワルテルの手記』を匿名で発表したが、殆ど無視される。『ナルシス論』を出版する。
     ワイルドを知る。

     1892年(23歳) 『アンドレ・ワルテルの詩』を匿名で出版する。
     11月 兵役につくが、肺結核と診断されて1週間で除隊する。
 
     1893年(24歳) フランシス・ジャムを知る。『ユリアンの旅』『愛の試み』を出版する。  
     10月 友人の画家ポール=アルベール・ローランスと共にアルジェリアに旅行し、過去の不安懊悩を捨てて、
     健康と生命の充実を求める。

     1894年(25歳) 旅先で肺を病み、一冬をビスクラで過ごす。
      健康を回復する。イタリアを経てパリに帰る。
      パリの空気に息苦しさを覚え、スイスのヌーシャテルに赴く。
      療養のために北スイス・ジュラ山地ラ・ブレヴィーヌ村に冬ごもりし、排他的な住民の悪意に耐えながら
     『パリュード』を書き上げる。

     1895年(26歳)1月 再びアルジェリアに赴き、ワイルドに会う。
     5月31日 、死去。
     6月17日 マドレーヌと婚約を結ぶ。
     10月8日 アンドレ・ジッドマドレーヌ・ロンドー、ノルマンディのエトルタの寺院で結婚式を挙げ、
     アルジェリアへ新婚旅行に行く。
     『パリュード』を出版する。ポール・クローデルを知る。

     1897年(28歳) アルジェリア旅行の経験を基にした散文詩『地の糧』を出版する。アンリ・ゲオンを知る。  

     1899年(30歳) 『鎖を離れたプロメテ』『旅日記(1895―1896)』『フィロクテート』『エル・ハジ』を出版する。
     領事として中国に赴任していたクローデルと文通を始める。

     1901年(32歳)10月 アルジェリア旅行の経験を基にして『背徳者』を書き上げる。

     1902年(33歳)6月 『背徳者』を出版する。最初の小説的作品だったが、一般には不評だった。  

     1903年(34歳) モーリス・バレスを擁護するシャルル・モーラスを相手に、ポプラ論争を行う。
     『サユル』『ブレテクスト』を出版する。ジャック・コポーを知る。

     1906年(37歳) 『アマンタス』を出版する。
     クローデルに勧められてキリスト教徒になったジャムと仲違いする。

     1907年(38歳) 『放蕩息子の帰宅』を発表する。

     1908年(39歳) 『書簡を通してみたドストエフスキー』を発表する。
     11月 モンフォール主幹の「新フランス評論(ヌーヴェル・ルヴェ・フランセーズ)」(N・R・F)誌の創刊に参与
     したが、レオン・ボッケの『反マラルメ論』を巡って意見が合わず、身をひく。「N・R・F」誌は一号で廃刊した。

     1909年(40歳)2月1日 ジッドが顧問格となって、ジャック・コポー、ジャン・シュランベルジェ、アンリ・ゲオン
     達と共に「N・R・F」誌を復刊する。「狭き門」を第一号〜第三号に渡って連載し、好評を博す。
     『狭き門』(La Porte Etroite)をメルキュール・ド・フランス社から出版する。この作品で一般に認められる。

     1910年(41歳) 『オスカー・ワイルド』を出版する。  

     1911年(42歳) 『イザベル』『続プレテクスト』を出版する。  

     1912年(43歳) プルーストから『スワン家のほうへ』の出版を依頼されたが拒絶する。

     1913年(44歳) ロジェ・マルタン・デュ・ガールを知る。
     11月 和気律次郎がスチュアート・メイスンの英訳から翻訳した『オスカー・ワイルド』が春陽堂から出版される。
     これは日本でのジイドの最初の翻訳だった。

     1914年(45歳)1月 プルーストに手紙を送り、『スワン家のほうへ』の出版拒絶を詫び、改めて出版を懇請する。
     『法王庁の抜け穴』が「N・R・F」誌に発表されると、宗教界を揶揄された事にクローデルは憤慨し、2人の不仲は
     決定的となる。『重罪裁判所の思い出』を出版する。

     1915年(46歳) この頃から宗教的危機に襲われ、福音書を読み耽る。

     1916年(47歳) 宗教的不安を「緑色の手帳」(『汝もまた……?』の原稿)に書き始める。
     この頃からジッドの同性愛的傾向のため家庭生活に破綻が始まり、苦悶する。
     自伝的作品『一粒の麦もし死なずば』を書き始める。
         
     1917年(48歳) 同性愛の相手だった17歳のマルク・アレグレと一夏スイスに滞在する。

     1918年(49歳)2月 『田園交響楽』を書き始める。
      マルク・アレグレと共にイギリスに逃避する。その留守にマドレーヌジッドからの手紙を全部焼く。
     10月 『田園交響楽』を書き終える。
     コンラッドの『台風』を翻訳し、出版する。

     1919年(50歳) 『田園交響楽』(La Symphonie Pastorale)を出版する。『贋金つかい』を書き始める。  

     1920年(51歳) 『コリドン』を匿名で出版する。
     『一粒の麦もし死なずば』上巻十二部私家版を作る。
     『アントニーとクレオパトラ』を翻訳する。

     1921年(52歳) 『一粒の麦もし死なずば』下巻十三部私家版を作る。
     8月 友人の画家の娘エリザベート・ヴァン・リセルベルグと南仏イエール海岸で同棲する。
     11月 アンリ・マシスは「ルヴュ・ユニヴェルセル」誌でジッドの背徳性を攻撃する。

     1923年(54歳)4月 エリザベート・ヴァン・リセルベルグとの間に娘カトリーヌが誕生する。
     『ドストエフスキー』を出版する。  
     アンリ・ベロノが「ルクレール」誌でジッドを攻撃する。
     6月 山内義雄が翻訳した『狭き門』が新潮社から出版される。これは日本でのジッドの最初の完訳だった。

     1924年(55歳) 『アンシダンス』を出版する。『コリドン』を著者名を明示して出版する。 

     1925年(56歳)6月 『贋金つかい』を書き上げる。
     7月 マルク・アレグレと共にコンゴに旅立ち、植民地の惨状を見る。
     後半 イヴォンヌ・ド・レトランジュ邸のサロンでアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ、ジャン・プレヴォー、
     ガストン・ガリマール、ジャン・シュランベルジェ、ラモン・フェルナンデスと会う。     

     1926年(57歳) 『贋金つかい』『贋金つかいの日記』を出版する。
     『一粒の麦もし死なずば』市販本を著者名を明示して出版する。  

     1927年(58歳) 旅行記『コンゴ紀行』を出版する。この作品は広く世論を巻き起こし、議会の問題となる。

     1928年(59歳) 『チャド湖より帰る』を出版する。

     1929年(60歳) 『女の学校』『偏見なき精神』を出版する。  

     1930年(61歳) 『ロベール』『ボワチエ不法監禁事件』『ルデュロー事件』を出版する。  

     1931年(62歳) 「ラティニテ」誌はジッドの影響について、ヨーロッパ各国の作家にアンケートを出し、
     その回答を発表する。

     1932年(63歳) 『日記(1929―1932)』を「N・R・F」誌に連載し、その中で共産主義やソ連への共感を表明する。
     12月 ルイ・マルタン=ショーフィエ編集の『アンドレ・ジッド全集』が刊行され始める(1939年第十五巻目で
     戦争のために中断する)。

     1933年(64歳)3月 共産党の機関誌「ユマニテ」にナチ抗議の文章を発表する。
     パリにおける反ナチ連盟の会合で「ファシスム」と題して講演する。     
     9月 反戦・反ファシスム世界青年会議の名誉議長となる。

     1934年(65歳)1月 ドイツ国会放火事件で逮捕されたディミトロフの釈放を要求するため、アンドレ・マルローと
     共にベルリンに赴き、ゲッペルスに抗議書を提出する。

     1935年(66歳) 真理同盟主催で「ジッドと現代」という討論会議を開催し、モーリヤック、マルロー、フェルナンデス、
     マシスなどが参加し、ジッドも出席して質問に答える。その記録『ジッドと現代』を出版する。
     『新しき糧』を出版する。

     1936年(67歳) 『ジュヌヴィエーヴ』を発表する。
     6月 瀕死のゴーリキーを見舞うためと、ソヴィエト作家大会に出席するためソ連に向かう。
     赤の広場でゴーリキー追悼の演説をする。
     8月 フランスに帰国する。
     11月 『ソヴィエト旅行記』を出版する。ソ連の一面の欠陥をついたため、「プラウダ」紙に反論が掲げられ、
     フランスでも左翼陣営から手厳しい非難を受けた。
     『未完の告白』を出版する。

     1937年(68歳) 『ソヴィエト旅行記修正』を出版する。ジッドに対する極左陣営の攻撃は更に厳しくなる。

     1938年(69歳)4月 マドレーヌが亡くなり、深い哀惜の念と孤独感に襲われる。
     『今や彼女は汝の中にあり』を書く。
     『ショパンに関するノート』を出版する。

     1939年(70歳) ギリシャ、エジプト、セネガルを旅行する。
     『日記(1889―1939)』を出版する。
     9月3日 第二次世界大戦が勃発する(〜1945年9月2日)。

     1940年(71歳)6月14日 パリ陥落のため、難を避けて南仏に逃れる。

     1941年(72歳) 対独協力を明らかにしたドリュ・ラ・ロシェルの「N・R・F」誌と絶縁する。

     1942年(73歳)5月 北アフリカに渡る。
     ジャン=ルイ・バローに依頼された『ハムレット』の翻訳が完了する。

     1943年(74歳) 『架空会見記』を出版する。

     1944年(75歳) 『日記(1939―1942)』を出版する。
     8月25日 パリが解放される。

     1945年(76歳) パリに帰国する。
     コメディ・フランセーズでジッド訳の『アントニーとクレオパトラ』が上演される。
     フランクフルト市からゲーテ勲章を贈られる。

     1946年(77歳) 『テゼ』を出版する。
     11月 ジャン=ルイ・バロー演出でジッド訳の『ハムレット』が上演される。
     フランス映画「田園交響楽」(ジャン・ドラノワ監督)が公開される。

     1947年(78歳)6月 オックスフォード大学より名誉博士号を贈られる。
     『劇作全集』を発刊する(全八巻、1949年完結)。『今や彼女は汝の中にあり』を限定出版する。
     11月 ノーベル文学賞を受賞する。

     1948年(79歳) 『ジャム―ジッド往復書簡集』を出版する。

     1949年(80歳)1月 ジッドとジャン・アムルーシュの対談がラジオで放送される(〜4月)。
     5月 病が重くなりニースの病院に入院する。
     サント=ジュヌヴィエーブ博物館で生誕八十年記念展覧会が開催される。
     『秋の断想』『クローデル―ジッド往復書簡集』を出版する。

     1950年(81歳) 『日記(1942―1949)』を出版する。
     マルク・アレグレ、映画「ジッドとともに」を製作する。

     1951年2月19日 パリのヴァノー街の自宅で死去、享年81歳。
     2月22日 ジャン・シュランベルジェ、ロジェ・マルタン・デュ・ガールなどの旧友、村人などの手で、愛妻
     マドレーヌの眠るノルマンディのキュヴェルヴィルの小さな墓地に葬られる。
     『今や彼女は汝の中にあり』が公刊される。

     1952年 『しかあれかし、あるいは賭けはなされた』を出版する。
     ローマ法王庁はジッド全著作を禁書とする。

     1955年 『ジッド―ヴァレリー往復書簡集』を出版する。

     1968年 『ジッド―マルタン・デュ・ガール往復書簡集』二巻を出版する。
     1969年のジッド生誕百年を記念するため、「アンドレ・ジッド友の会」が作られる。会長はジャン・ランベール夫人
     (娘カトリーヌ)、名誉会長はアンドレ・マルロー。

     2013年 日本映画「瞳をとじて」(葉山陽一郎 監督、原案『田園交響楽』)が公開される。

     注:「Andre」の「e」の上には「´」が付いています。

     参考図書:『田園交響楽』神西清 訳 新潮社
          『狭き門』山内義雄 訳 新潮社
映画

題名田園交響楽(La Symphonie Pastorale)
製作年1946年
監督ジャン・ドラノワ
出演ピエール・ブランシャール(牧師)、ミシェル・モルガン(ジェルトリュード)、リーヌ・ノロ(アメリー)、ジャン・ドザイー(ジャン)、アンドレ・クレマン(ピエット)
受賞第1回カンヌ国際映画祭グランプリ、主演女優賞、作曲賞
備考フランス映画

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