Edgar Allan Poe

エドガー・アラン・ポーポオ
     父方の祖先はノルマン系とケルト系との両方の血を享け、曽祖父が北アイルランドからアメリカに移住してからも、
     メリーランド州ボルティモア市で相当の家だった。

     アイルランド人の父デイビッド・ポーJr.はボルティモア市で生まれ、19歳の時に初舞台を踏んだ旅役者だったが、
     批評家からしばしば大根役者と酷評されたほど不器用で、やがて飲酒のために舞台に立てなくなる。癇癪持ち。

     1796年 9歳だった母エリザベス・アーノルド・ホプキンス祖母と共にイギリスからアメリカに移住した時から
     舞台に立った旅役者だった。かなり名の知れた女優で、オフィーリアやジュリエットを演じたくらい才能も魅力もあった。

     1806年 と恋愛結婚をし、家を飛び出してしまう。

     1807年1月30日 兄ウィリアム・ヘンリーがマサチューセッツ州ボストンで生まれる。
     才能はあるが自制心にとぼしく、詩を書いたり船乗りになったりしたが、と同じく大酒飲みだった。

     1809年1月19日 ボストンで次男として生まれる。から性格と飲酒癖を受け継ぎ、
     この酒癖はポーの一生、評判、理性をダメにしてしまう事になる。嘘言癖があった。
      ニューヨークへ行く。
     10月 は10月の舞台を最後に妻子を捨てて失踪する。
 
     1810年(1歳)8月 は子供を連れて、バージニア州リッチモンドに行き、舞台に立つ。
     12月頃 父親については疑惑の噂があった妹ロザリーが生まれる。ひどい精神薄弱者で、風変わりな老女として
     60歳代まで生き、慈善養老院で死去。

     1811年(2歳)12月8日 貧窮の内に、がリッチモンドで結核のために死去、享年24歳。
     ポー自身の言葉によると、も数週間後に死亡したという。
     はボルティモアの父方の祖父に引き取られた。
     はリッチモンドのウィリアム・マケンジーの家に引き取られた。
     ポーはリッチモンドに住む、スコットランド出身の裕福なタバコ輸出業者ジョン・アラン家に引き取られ、
     エドガー・アラン・ポーと名乗る事になった。アラン夫人(フランセス)は実子がないので、愛情を注いでくれたが、
     ジョン・アランはついにポーを正式に自分の籍に入れなかった。

     1815年(6歳)7月 養父が商用でイギリスに渡った時、ポーも養父母に連れられてイギリスヘ渡る(〜1820年8月)。
     スコットランドヘ数週間旅行したほかは、主にロンドンにいた。

     1817年(8歳) ロンドンのスローン通りにあるデュバーグ姉妹の学校やロンドン近郊のストーク・ニューイントン
     にあるマナー・ハウス・スクールに通う(〜1820年)。
     校長のジョン・ブランスビー牧師によると、ポーは「利発」ではあるが、むら気で、強情な生徒だったらしい。
     ポー「ウィリアム・ウィルソン」の中で校長の名を使い、寄宿学校生活の経験(約二年間)を前半に利用している。

     1820年(11歳)8月 養父母と共にリッチモンドに帰る。
     養父はポーを相次いで土地の学校二、三に通わせ、家業も少し見習わせ始め、やがては正式の養子として
     アラン家の相続人とするような様子を見せる事もあったが、自分を本当に相続人にするのかどうか、
     養父の本心がつかみかねて、ポーは粗暴になる事があった。

     1822年(13歳)8月15日 後にポーの妻となる従妹のバージニア・エライザ・クレムが生まれる。

     1823年(14歳)4月 ウィリアム・バークの学校に入学する。
     級友の母親ジェイン・スタイス・スタナード夫人を知り、その美しさに魅せられ、初めて恋をする。 

     1824年(15歳) スタナード夫人の死はポーにつきぬ悲しみを与え、のち有名な短唱「ヘレンに寄せる歌」を書いた。 

     1825年(16歳) 近所の娘セアラ・エルマイラ・ロイスターと親しくなり、密かに婚約する。 

     1826年(17歳)2月  バージニア大学に入学する(〜12月)。
     古典やフランス語で優秀な成績をおさめながらも、賭博(養父からの仕送りが少ないので、学費の不足を補う
     ために手を出す)や飲酒などの放埓にふけって八か月の間に二千ドルの借金を作ったたため、養家の方から
     退学させられる。この頃から養父母との間には越えられない隙が生じ始めた。
     セアラポーがアラン家の正式の養子になれないのを見越してか、婚約を解消してしまう。 

     1827年(18歳) しばらく養父の事務所で働く。
     3月 養父と争って家出をし、リッチモンドを出奔して放浪生涯が始まる。
     4月 アンリ・ル・ルネという変名で乗り込んだ石炭船でボストンに到着する。
     5月 仕事がなかったので、エドガー・A・ペリーの変名で合衆国陸軍に入隊すると(〜1829年4月15日)、
     ボストン港内のインディペンデンス要塞に配属された(〜11月)。     
     6月頃 ボストンで最初の小詩集『タマレーン、その他』(Tamerlane and Other Poems)を匿名で出版するが、
     ほとんど売れなかった。 
     11月 サウス・カロライナ州チャールストン港内サリバン島の要塞に移る(〜約一年)。この島が「黄金虫」の背景となった。

     1828年(19歳) バージニア州マンロー要塞に転勤する。 

     1829年(20歳)「ソネット―沈黙」(Sonnet-To Silence)を発表する。
     1月 准尉に昇進する。
     2月28日 養母が死去したので、養父と一時和解する。
     5月 養父の好意を取り戻すためにウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学しようとして、陸軍省と交渉する。
     ボルティモアの父方の祖母の家にしばらく滞在する。ポーはこの貧しい家で従妹のバージニア・エライザ・クレム
     と初めて会い、親しくなる。この家には肺患とアルコール中毒とで死にかかっていた、叔母マリア・クレムがいた。
     10月 養父が若い女性と再婚する。
     12月 第二の小詩集『アル・アーラーフ、タマレーン、その他小詩』(Al Aaraaf,Tamerlane,and Minor Poems)
     をボルティモアで出版するが、ほとんど売れなかった。

     1830年(21歳)7月1日 ウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学する(〜1831年3月6日)。成績優秀な生徒だったらしいが、
     拘束生活に堪え切れなくて、たちまち厳格な訓練に嬢気がさし、好んで規則を破るような違法行為をやるようになる。

     1831年(22歳)「イズラフェル」(Israfel)を発表する。
     3月6日 軍務怠慢のため、士官学校を放校となり、クレム叔母の家に身を寄せる(〜1835年8月)。この頃から、
     生活のために短編小説を発表し始める。
     4月 第三詩集『Poems by Edgar A. Poe』をニューヨークで出版するが、ほとんど売れなかった。
     8月1日 が結核のために死去、享年24歳。
     12月 ≪フィラデルフィア・サタデー・クリア≫誌の懸賞短編小説に応募した五編が採用となり、
     「メルツェンゲルスタイン」(Metzengerstein)以下が同誌に発表された。 

     1832年(23歳) クレム叔母の家にいたと思われるが、ヨーロッパに行ったという説もある。 

     1833年(24歳)10月 ≪ボルティモア・サタデー・ビジター≫誌の懸賞短編小説に応募した「壜の中から出た手記」
     (MS. Found in a Bottle)が一等入選して賞金50ドルを得た。選者の一人、ジョン・P・ケネディと知り合い、
     彼を通してリッチモンドの≪サザン・リテラリ・メセンジャー≫誌と関係ができた。 

     1834年(25歳)3月27日 養父が死去。遺書にポーの名は記載していなかった。 

     1835年(26歳)2月 リッチモンドの≪サザン・リテラリ・メセンジャー≫誌に寄稿を始める。
     8月 クレム叔母に乞うてバージニアとの結婚許可を得、同誌の編集助手として二人と共にリッチモンドヘ赴任する。
     暮れ 同誌の編集主任となる(〜1837年1月)。 

     1836年(27歳)5月16日 13歳だった従妹バージニア・エライザ・クレムと結婚する。
     ≪メセンジャー≫誌の発行部数を増加させる手腕を発揮したが、飲酒がたたって健康を害した。 
 
     1837年(28歳)1月 ≪メセンジャー≫誌の編集の職を失う。
     2月 クレム叔母とを伴ってニューヨークヘ出る(〜1838年8月頃)。

     1838年(29歳)7月 唯一の長編小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』(The Narrative 
     of Arthur Gordon Pym of Nantucket)をニューヨークのハーパーズ社から出版するが、売れなかった。この作品
     はベンジャミン・モレルの南海航海記(1832年)やJ.N.レノルズの旅行記(1836年)に記された事実を基にした
     探検と冒険の物語で、ジュール・ヴェルヌが続編『氷のスフィンクス』(1897年)を出版している。
     8月頃 フィラデルフィアヘ行く(〜1844年4月)。
     9月 短編小説「リジイア」(Ligeia)を発表する。題名はミルトンの『コーマス』に出てくる海の精の名から
     取ったもので、ポーは初めこの名を詩「アル・アーラーフ」で用いた。
 
     1839年(30歳)6月 ≪バートンズ・ジェントルマンズ・マガジン≫の編集に参加する(〜1840年6月)。
     9月 短編小説「アッシャー家の崩壊」(The Fall of the House of Usher)を同誌に掲載する(1845年の
     『物語集』に所収)。
     10月 短編小説「ウィリアム・ウィルソン」(William Wilson)を同誌に掲載する。物語の典拠は
     ワシントン・アーヴィングが1836年の年刊『ギフト集』に載せた「人の知らないバイロン卿の劇」だそうです。

     1840年(31歳)1月29日 エッセイ「本能対理性」を≪アレグザンダーズ・ウィークリー・メセンジャー≫に発表する。
     6月 ≪ジェントルマンズ・マガジン≫の編集をやめ、自分の雑誌≪ペン・マガジン≫を創刊しようとした。
     これまでの短編を集めた『グロテスクな物語とアラベスクな物語』(Tales of the Grotesque and Arabesque)
     二巻をフィラデルフィアで出版する。

     1841年(32歳) ≪グレアムズ・マガジン≫の主筆となる(〜1842年5月)。同誌の発行部数は五千部から三万七千部
     になったといわれる。
     2月 チャールズ・ディケンズが推理小説的な長編歴史小説「バーナビー・ラッジ」を週刊雑誌に連載し始める(〜11月)。
     この連載に目を止めたポーは、冒頭を読んだだけでメイントリックを見破り、真相をつきとめて長文の書評を執筆する。
     4月 名探偵<オーギュスト・デュパン>が登場する短編推理小説「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue)を
     ≪グレアムズ・マガジン≫の創刊号に発表する。この作品で近代推理探偵小説の基本的な公式が確立され、デュパンの
     優れた知力は、後のシャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロ、フィロ・ヴァンスなどの先駆となった。
     5月 短編小説「メールストロームに呑まれて」(A Descent into the Maelstrom)を同誌に発表する。
     マコーレイ「試論集」の書評などを同誌に発表する。

     1842年(33歳) 短編小説「エレオノーラ」(Eleonora)を発表する。
     1月 が結核の兆候を示す。一時回復したが、何度も再発したため、ポーは非常に苦しむ事になる。
     3月7日 アメリカ旅行中のディケンズと会うために、滞在先のホテルを訪問する。
     5月 ≪グレアムズ・マガジン≫を去る。自分の雑誌≪スタイラス≫を発行しようとしたが、実現しなかった。
     短編小説「赤死病の仮面」(The Masque of the Red Death)を≪グレアムズ・マガジン≫に発表する(後に
     ≪ブロードウェイ・ジャーナル≫二巻二号に再録)。
     12月 <デュパン物>の短編推理小説第二作「マリー・ロジェーの怪事件」(The Mystery of Marie Roget)を
     ≪スノーデンズ・レディズ・コンパニオン≫に発表する(〜1843年2月)。この作品は、数カ月前にニューヨーク
     で若い娘メアリ・セシリア・ロジャーズが殺され、センセーションを起しながらも迷宮入りになったという
     実在の事件を基にして書かれた。
     ロングフェローの「バラッドその他」の書評などを書いた。
     ホーソンの「トワイス・トールド・テールズ」の書評で、初めて近代短編小説の性格を理論化した。

     1843年(34歳) 『散文物語集』(The Prose Romances of Edgar A. Poe)を出版する。
     短編小説「落し穴と振り子」(The Pit and the Pendulum)を発表する。
     1月 短編小説「物言う心臓」(The Tell-Tale Heart)を≪パイオニア≫に発表する。
     6月 フィラデルフィアの新聞≪ダラー・ニュースペーパー≫に短編推理小説「黄金虫」(The Gold-Bug)を
     投稿して賞金100ドルを得、同誌に連載される(6月24日〜7月8日。1845年の『物語集』に所収)。
     8月19日 短編小説「黒猫」(The Black Cat)を≪ユナイテッド・ステーツ・サタデー・ポスト≫誌に発表する
     (1845年の『物語集』に所収)。
 
     1844年(35歳)「夢の国」(Dreamland)を発表する。
     短編推理小説「犯人はお前だ」(Thou Art the Man)を発表する。
     4月 ニューヨーク市へ移る(〜1849年)。
     短編小説「鋸山奇譚」(A Tale of the Ragged Mountains)を発表する。
     10月 ≪イブニング・ミラー≫紙の編集に関係する(〜1845年3月)。

     1845年(36歳) <デュパン物>の短編推理小説第三作「盗まれた手紙」(The Purloined Letter)を≪ギフト≫に発表する。
     1月29日「大鴉」(The Raven)を≪イブニング・ミラー≫紙に発表し、ようやく作家としての名声を得た。
     3月 「ミラー紙」を辞め、週刊誌≪ブロードウェイ・ジャーナル≫の編集に加わり、10月には同誌の所有者兼主筆
     となる(〜1846年1月)。
     7月 短編小説「天邪鬼」(The Imp of the Perverse)を≪グレアムズ・マガジン≫に発表する。
     これまでの短編12編を集めた『物語集』(Tales)をニューヨークにて出版。これは後にロンドンでも出版された。
     11月 詩集『大鴉、その他』(The Raven and Other Poems)を出版する。

     1846年(37歳) 哲学的な散文詩「ユリイカ」を発表する。題名はアルキメデスが「アルキメデスの原理」を発見
     した時に叫んだ言葉で、ギリシア語で「われ発見せり」の意味。
     1月 破産した≪ブロードウェイ・ジャーナル≫を廃刊する。
     4月 主として「大鴉」の分析を行なった詩論「詩作の哲学」を≪グレイアムズ・マガジン≫に発表する。
     5月頃 ニューヨーク市外、フォーダムの田舎家に移り住む。この頃、貧窮は絶頂に達していた。

     1847年(38歳)1月31日  が長い病気の後に死去、享年24歳。
     の死後、ポーはほとんど絶えまない乱酔、泥酔の連続だった。一度は阿片自殺を図ったこともあるが、
     致死量を超えた飲み過ぎで失敗した。
     その間、シュー夫人や既婚の詩人(ポーの詩「ステラ」に出ている)など数人の女性と不幸な恋愛をする。
     12月 叙情詩「ユーラリウム」(Ulalume)を≪アメリカン・ウィッグ・レビュー≫誌に発表する。

     1848年(39歳)6月 詩集『ユリイカ』を出版する。
     ホイットマン夫人(6歳年長の未亡人で詩人。ウォルト・ホイットマンとは無関係)と知り合って求婚する。
     酒を断ち、彼女の財産への権利も放棄するという誓約までして、やっと結婚を承諾してもらうが、
     結婚式直前の一日、ポーが泥酔して彼女の家に現われたというので、にわかに破談になってしまう。
     同じ頃、既婚女性(ポーの詩に「アニー」の名で出ている)にも、烈しい愛の告白をし続けている。     

     1849年(40歳)4月「黄金の国」(Eldorado)をボストンの週刊紙に発表する。
     6月 新しい雑誌の出版計画のための金策と、講演のためにリッチモンドヘ向かう。
     7月 リッチモンドに到着する。
     初恋の人で、未亡人になっていたシェルトン夫人(セアラ・エルマイラ・ロイスター)と再会して求婚し、婚約する。
     8月 リッチモンドで「詩の原理」について講演する。
     9月27日 結婚準備とクレム叔母をリッチモンドに連れて来るために、ニューヨークへ帰ろうとして船に乗る。
     途中、所用でボルティモアに立ち寄る。
     10月3日 ボルティモアのある選挙投票所の前で、酔っぱらって倒れているのを発見されるが、瀕死の重態だった
     ので、病院に収容される。
     10月7日朝5時頃 病院で死去、享年40歳。遺体は同市のウェストミンスター・プレスビテリアン教会に葬られた。

     1850年 各市で講演した評論『詩の原理』が出版される。

     1932年 アメリカの白黒映画「モルグ街の殺人」(ロバート・フローリー監督)が公開される。

     1954年 アメリカ映画「謎のモルグ街」(ロイ・デル・ルース監督)が公開される。

     1971年 イギリス映画「モルグ街の殺人」(ゴードン・ヘスラー監督)が公開される。

     1986年 アメリカ・フランス合作のTVM「モルグ街の殺人」(ジュノー・シュウォーク監督、ジョージ・C・スコット主演)が放映される。

     作品には短詩短編小説(アラベスク物、推理物、グロテスク物)、評論などがある。
     当時は職業作家の地位は低く、収入も多くはなかったので、詩や小説で家族を養う事ができなかったため、
     雑誌の編集をしたり、書評を連載したりして生計を立てていたが、生涯を貧窮の内に過ごした。
     編集者としては一流で、批評家としての功績も大きかったのに、頻繁に雑誌を変えたのは、ポーの性格と酒癖、
     不安定な精神状態のためだった。
     ポーはアメリカでは正しく評価されなかったが、フランスの詩人シャルル・ボードレール(1821〜1867)がポー
     を勉強して象徴主義という文学思想を発明した機縁から、ポーの殆ど全作品を仏訳して全世界に紹介した。
     日本で探偵小説を初めて書いた江戸川乱歩の名前は、エドガー・アラン・ポーの名を日本名にもじったものだそうです。

     参考図書:『黒猫・黄金虫 他四編』刈田元司 訳 旺文社
          『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五編』中野好夫 訳 岩波書店
リンク

『アッシャー家の崩壊』『黒猫』『黄金虫』『盗まれた手紙』『早すぎる埋葬』『モルグ街の殺人事件』など12作品 「青空文庫」のポー翻訳作品リストにリンクしています。

『暴露させる心臓』 「プロジェクト杉田玄白」で翻訳されているページにリンクしています。

『約束』 「プロジェクト杉田玄白」で翻訳されているページにリンクしています。

私立本格推理小説「風読人:ふーだにっと」
Edgar Allan Poe(著者略歴、作品リスト、関連リンク)

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